2004年10月2日 | 読書にまつわる大人と子ども |
子どもの活字離れが問題だとしてよく取り上げられるが、
大人が読書をしなくなったのが一番の原因だという意見もある。
詳しい指摘は避けるが、ベストセラーだけがバカ売れし、
他の本は売れずに書店が苦しい経営を強いられているのは事実だ。
「子どもは、大人の言うことは聞かないが、やることは真似する」と言われるように、 頭ごなしに読書をしろと言っても、その叱る本人が読書をしていなければ、効果はない。 子どもの目は、説教をする大人だけに向いているわけではない。 自分の周りの大人が読書をしていなければ、 「だって、○○さんも本を読まないよ?」という反論をするだろう。 「周りの大人」は、子どもにとっては社会そのものである。 各個人から見れば少数の「周りの大人」であっても、 全ての子どもから見れば、「周りの大人」は全ての大人である。 教育は学校だけが行うものではない、家庭や地域と連携して行われなければならない。 すなわち、社会全体で行うものなのである。 子どもの問題の原因の多くは大人にあると言っても過言ではない。 |
2004年10月3日 | 古典の中心で、エロをさけぶ | |
ベストセラーはパロディ化される。
「山高故不貴 以有樹為貴 人肥故不貴 以有智為貴 (やまたかきがゆえにたっとからず。きあるをもってたっとしとす。ひとこえたるがゆえにたっとからず。 ちあるをもってたっとしとす。)」で始まる『實語教』は平安時代に成立し、 鎌倉時代から明治時代まで広く初等教育の教材として読まれた儒教色の強い読み物である。 外見だけではなく、中身まで充実してこそ本物だと説いている。 江戸時代は特にパロディが多く、『伊勢物語』をもじった『仁勢物語』や、 『枕草子』をもじった『尤草紙』などが出版されている。 そして、それは『實語教』とて例外ではない。『実娯教』なるものが出版されている。 それでは、どのようにもじられたのかを見てみよう。 「鳫高故不貴 以気遣為貴 玉茎太故不貴 以能気味為貴(かりたかきがゆえにたっとからず。 きやるをもってたっとしとす。まらふときがゆえにたっとからず。きゆるすをもってたっとしとなす。)」 えーと。「亀頭は大きいから素晴らしいのではない。イかせられるから素晴らしいのだ。 男根は太いから素晴らしいのではない。気持ち良くさせられるから素晴らしいのだ。」だそうです。
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2004年10月8日 | もっとぶって! | |
体罰が認められていた時代などない。
よく、「今の子どもは甘やかされすぎ」という文脈の中で、 「昔のように体罰は必要だ」などと語られることがある。 しかし、学校教育法第十一条には「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、 監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。 ただし、体罰を加えることはできない。」とある。 つまり、昭和二十二年の学校教育法施行以来、 法律で体罰は禁じられているのである。 それでも「昔は体罰が当たり前だった。」という声が出る背景には、 体罰が表沙汰にならなかったか、 教育活動の中での「体罰」の解釈が受け取る人によって違ったかのどちらかが考えられる。 それどころではなく、「昔は・・・」などと言わなくても、現在でも同じことが言えると思う。 しかし、何はともあれ、体罰が認められていた時代などはない。 次回、体罰の解釈について書く予定。
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2004年10月11日 | 恥じらいに頬を染める乙女 |
懲戒と体罰の違いとは何か。
退学・停学・訓告などの法的な効果を伴う懲戒処分は、規定によって定められている。 また、体罰については旧法務庁が発表した「児童懲戒の限界について」という文書の中で、 「学校教育法第11条にいう体罰とは、懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する」として、 「なぐる、けるなど身体に対する侵害を内容とする懲戒」 「端座、直立等、特定の姿勢を長時間にわたって保持させるような被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒」が 体罰にあたるとしている。例えば、トイレを我慢させたり、 午後の授業が始まっても給食を食べさせたりするのも肉体的苦痛になるので体罰だ。 また、義務教育では廊下に立たせて授業を受けさせないのも体罰にあたる。 しかし、法的な効果を伴わない懲戒と体罰の具体的な内容については、正確な線引きがあるわけではなく、 ケースバイケースで振り分けられているのが現状だ。 そうなると、法解釈、つまり意識の持ちようの問題になってくる。 今でも忘れられない出来事がある。私が小学校3年生の国語の時間、 「追」という漢字の書き順を先生が指で示し、私たちも真似をするということをしていた。 どうも私の書き順が間違っていたらしく、それを見つけた先生は、 私を起立させ、「お尻で字を書きなさい」と言った。 「間違ったからやらされるんだな」と従ったが、顔から火の出る思いであった。 先生にとっては間違いを正すために知恵を絞った教育活動だったのかもしれないが、 やらされた側としてはあれほど屈辱的なことはなかった。 今となっては体罰だったと認識している。 行為者と被行為者の間に意識の違いがあったのは明白だ。 尤も、あれ以来「追」の書き順を間違えたことはないので、 その点では先生の指導は正しかったのかもしれない。 |
2004年10月12日 | 言いたいことも言えないこんな世の中じゃ |
戦争は、人間を人間でなくす。
太宰治に、源頼朝の子であり歌人でもあった源実朝を描いた『右大臣実朝』という作品がある。 発表は昭和18年9月。日本は太平洋戦争に突入し、軍部中心で思想・言論が統制されていた。 統制されていただけではない。無理矢理に思想犯に仕立て上げようとした節がある。 昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、 ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、 そのたんびに竹槍突撃の猛訓練などがあり、 暁天動員だの何だの、そのひまひま小説を書いて発表すると、それが情報局に、 にらまれているとかいうデマが飛んで、 昭和十八年に「右大臣実朝」という三百枚の小説を発表したら、 「右大臣《ユダヤジン》実朝」というふざけ切った読み方をして、 太宰は実朝をユダヤジンとして取り扱っている、などと何やら、 ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている卑劣な「忠臣」もあった。(太宰治『十五年間』) 太宰が国家に対してどんな思想を抱いていたかは別にして、 「右大臣」を「ユダヤジン」と読ませるなんてことは考えられない。 これは明らかに意図的に思想犯に仕立て上げるための戦略だ。 果たして、太宰を捕まえたところでどうなるのかはわからないが、 そこは戦時中。感覚が麻痺しきってしまい、鼻につく者は片っ端から消してしまいたいのだろう。 イラクでも捕虜が虐待を受けていた。それは人間にあるまじき姿である。 戦争は、人間を人間でなくす。 |
2004年10月13日 | 社会のゴミ | |
昔、子供会の行事で町内のゴミ拾いをした。
比較的田舎でのどかな我が町。
しかし、それでもゴミは無数に落ちていた。
一番目に付くのがタバコの吸い殻。
雨に濡れ、少しふやけた吸い殻は見た目だけでなく手触りも気持ち悪い。
童心ながら「何で人の捨てたもんを拾わなアカンねん」と思ったものだ。
また一方で、「ゴミはゴミ箱に捨てよう」と固く誓った。
私にこう思わせただけでも、ゴミ拾いの価値は高い。
町内の清掃だけではなく、教育活動の一端を担っていたのだ。
平気でタバコをポイ捨てするような人間は、 ゴミ拾いなんてしたことないか、したけれど何の教訓も得なかったか、 ニコチンで頭がやられているかのどれかに違いない。可哀想な人種である。 何度も繰り返すが、教育は社会全体で行うものだ。 ポイ捨てする大人がいれば、ポイ捨てする子どもが現れるに決まっている。 喫煙する大人がいれば、喫煙する子どもが現れるに決まっている。 その意味では、親がタバコを吸う子どもは不幸だ。 それだけでタバコに対する抑止力が失われてしまう。 GOLDEN SHINEは、マナーの悪い喫煙者を打擲します。
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2004年10月15日 | ここが変だよ作詞陣 |
よく考えると、微妙におかしい歌詞もある。
僕は 照れくさそうに カバンで顔を隠しながら 本当は とても とても 嬉しかったよ (ZONE『secret base〜君がくれたもの〜』) 「照れくさそうに」の「そうに」がどうも引っかかる。 「そうに」は様態の助動詞「そうだ」の連用形であり、 「様態」とは、状況から推測して、そういう様子だという、不確実な判断を示す言い方である。 「嬉しかった」というように、語り手である「僕」の視点は過去へと向いているから、 時間の隔たりによってはそのように感じられるのかも知れないが、 自分の行動を「照れくさく」と断定せずに、客観視しているのはやはり奇妙だ。 「僕」以外の誰かが「僕」を見ているような感じを受ける。 因みに、前後の流れを無視して、仮に「君は照れくさそうに」としてみるとしっくりくる。 君が最後まで 心から 「ありがとう」叫んでたこと 知ってたよ (ZONE『secret base〜君がくれたもの〜』) 誇らしげにプレゼント見せると 君は心から喜んで (B'z『いつかのメリークリスマス』) 再度登場の『secret base〜君がくれたもの〜』と、『いつかのメリークリスマス』では 「心から」が気になって仕様がない。今度は逆に、「君」が「心から」「叫んで/喜んで」いることなど わかるはずがないのに、断定してしまっているところが不可解なのだ。 「心から」という言葉の持つ力を安易に使ってしまい、逆に陳腐な表現と堕してしまっている。 これも仮に「僕は心から喜んで」としてみると、すっと心に入ってくる。 美しい旋律で心地よいリズムを刻む音楽であっても、 このように歌詞の一部に何らかの疑念を抱かせる表現があった時点で、 全体としての評価を下げてしまうことにもなりかねない。 言葉に関わる者は言葉に細心の注意を払わなければならない。 JASRACへの注意は払わない方向で。 |
2004年10月18日 | 運動会と飲酒 | |
読売新聞に次のような記事が掲載された。
小学校の運動会で、地域住民が酒を酌み交わす。 地方の習慣を懐かしむ記者のコラムを4日朝刊の教育面に掲載したところ、 読者から反響が相次いだ。三対一の割合で、 「教育活動の場に酒は論外」という禁酒派が、容認派を圧倒。 運動会シーズン。酒臭い息には、やはり風当たりが強かった。 普段ならばここで自分の教育観をぶちまけるところなのだが、 この記事を読んだ後に偶然次のような文章に出会ったので、少し長いが紹介しようと思う。 教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、 その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。 その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、 夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、 昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。 まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。 さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、 いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、 運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、 さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、 それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、 大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。 たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、 本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。 古代の神々の豪放な笑ひと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。 海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、 華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。 これは、太宰治の『津軽』である。雑誌社に故郷についての作品を頼まれ、 久々に青森に戻った太宰が書き上げた渾身の作品と言われている。 我々が文学作品を読む意義の一つに、社会を知るということが挙げられる。 こんな時代があったと証明してくれる作品に出会えたという喜びだけを残して、今回は終わり。
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2004年10月19日 | 親の喫煙 |
自分の意見に説得力を持たせるためには、他人の論を提示する必要がある。
2004年10月13日の日記で、子どもを持つ大人の喫煙を打擲した。 これまで培った教育観に基づいて論じたが、普遍的な考えではなかった。ただ吼えただけだ。 しかし、今朝の朝日新聞に次のような記事が載ったことにより、 科学が覆されない限り、現時点では自信を持って主張ができるようになった。 より気になるのは、子どもへの影響だ。 静岡県立こども病院内分泌代謝科の加治正行医長は、 喫煙者の周りで煙を吸い込む受動喫煙の害を指摘する。 加治さんは、乳幼児突然死症候群▽ぜんそく▽中耳炎などの危険が増し、 身長の伸びや知能の発達にも悪い影響を及ぼし、成人後の発がん率も高くなると言う。 「さらに問題なのは、喫煙者の子どもは小さい時からたばこを吸う確率が高いこと」 加治さんは、静岡県のある中学校の生徒781人の喫煙経験を調べた。 両親が喫煙しない子どもで喫煙経験があるのは7.5%だったが、 親が喫煙する場合は16%に上がった。 「親の姿を見て、抵抗感がなくなる。大人より重度のニコチン依存になりやすく、禁煙も難しい。 ぜひやめて下さい」と励まされた。 私は喫煙者の健康を気遣っているわけではない。 正直なところ、それは自業自得だから、どうぞ体を壊して下さいという気持ちだ。 ただ、喫煙者の周囲にいる人間、特に弱者である子どもが可哀想だから言うのである。 大人であれば、喫煙者に意見することは容易いが、子どもには無理だ。 ましてや、行動の規範の最たる存在である親に対しては完全に無力である。 子どもは大人にすがってしか生きられない。 大人は自分の行動に責任を持たなければならない。 |
2004年10月21日 | サービスと感謝 | |
私は通学でバスを利用しているのだが、時々心にひっかかることがある。
それは、乗客が降りる際に運転手に対して「ありがとう」と言うことだ。
ここで言いたいことは二つある。一つは、
「お金を払って運んでもらっているのだから、特に感謝の言葉はいらないのではないか」ということ。
もう一つは、それから派生して「言うのであれば『ありがとうございます』と言うべきではないか」ということだ。
実は、一つ目に関しては、 私もアルバイトでレジに立つ時に、お客さんに「ありがとう」と言われると嬉しいので、 「言うべきではない!」と強く主張するつもりはない。 そのくせ、自分はバスの運転手には頭を下げる程度だから、冷たいものである。 しかし、問題は二つ目だ。私の観察したところ、運転手に「ありがとう」と言うのは学生に多い。 若年層にその傾向が見られること自体は喜ばしいことだが、それはここでは問題としない。 明らかに自分より年上の人に敬語を使わないということを問題としたいのだ。 学生達は私が聞く限り、友達感覚で「ありがとー!」と言う。 ニュアンスとして、決して「ありがとう」ではないし、 「ありがとうございます」は殆ど聞いたことがない。 気持ちというものは、ある言葉を発すれば伝わるというものではない。 だから、丁寧に「ありがとうございます」と言えばそれでいいと言うものでもない。 また、時と場合によっては、逆に言わない方がよいとされることもある。 友達感覚の「ありがとー!」より、 頭を下げるだけの方が敬意がこもっていると見る人もいるだろう。 このあたりはコミュニケーションの難しさや、 日本人の持つ気質を表していると言ってもよいかもしれない。 私と同じ印象を受ける人もいるだろうし、意に介さない人もいると思う。 サービスに対する考え方、道徳に対する考え方や言葉に対する考え方の違いで、 色々な立場に分かれるだろう。皆さんはいかがですか?
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2004年10月24日 | 聖なる亀の水 | |
『新古今和歌集』には部立というものがあり、歌の内容によって、
春歌・夏歌・哀傷歌・離別歌などに分かれる。その部立の一つに釈教歌と呼ばれるものがある。
釈教歌とは、簡単に言ってしまえば、仏教に関することを詠んだ歌、
また仏教思想に基づく歌である。例として次の歌を挙げる。
天王寺のかめ井のみづを御覧じて にごりなき かめ井の水を結びあげて 心のちりをすゝぎつる哉 作者は上東門院。紫式部が仕えた中宮彰子である。 「天王寺〜御覧じて」までは、詞書きといって、 「今から詠む歌はこんな感じですよ」と説明するものである。 歌の本体は、「にごりなき〜すゝぎつる哉」までだ。 大学の授業で、『新古今和歌集』の釈教歌の中から一首を取り上げて発表せよという 課題が出たので、この歌を選んだ。 そして、数冊の注釈書に目を通したところ、あることに気が付いた。 「かめ井の水を結びあげて」の説明が、「水を掬い上げて」のものと、 「水を掬い上げて飲んで」のものとがあるのだ。 果たして、掬い上げるだけで心の穢れが清められるのか、 はたまた飲まなければ効果が無いのか。 注釈書によると、「天王寺」は「四天王寺」のことらしい。 明後日は授業が入っていないので、実際に四天王寺に行って、飲む飲まない以外にも 色々と取材してこようと思う。もしかしたら何もわからないかもしれないし、 私が知らないだけで飲むか飲まないかは実は結構有名なことかもしれない。 しかし、耳学問よりも色々と体験しながら学ぶ方が楽しいし、身に付くだろう。 デューイの唱えた「Learning by doing」に繋がるものがあると思う。 でも、次回の更新は特に期待しないでいいです。
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2004年10月25日 | やりたい放題 | |
「多くの社員が見ている前で女子社員を抱き寄せ、無理やりキスするなどした」
「女子社員に舌まで入れたキスをしたり、胸や太腿、その奥まで触っていた」
「社員旅行では社員の布団に潜り込んだり、
携帯電話で撮影した女性の陰部を携帯の待ち受け画面にし、社員に見せて喜んでいた」
そんな人が、「強制ではない」と犯意を否認しているという。 万が一、抱き寄せたりキスしたりお触りしたり布団に潜り込んだりするのが 同意の上であったとしても、「社員の見ている前」だったり、 「女性の陰部を携帯の待ち受け画面にし、社員に見せて喜んでいた」だったりというのは、 倫理的にどうかと思いますけどね。 関係者の反応が冷ややかなのもうなずけるというもの。 今日はこれで終わり。(四天王寺の取材は特に収穫が無かったのでスルー)
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2004年10月27日 | 機は熟した | |
イラクで1人の日本人が拉致され、犯行グループは自衛隊を撤退させなければ
殺害すると主張しているとの報道が流れた。
この事件の真相はまだ不明瞭な点が多いが、自衛隊は即刻撤退すべきだろう。 そして、地震の復興に総動員すればいい。 自衛隊の支援がイラクの住民に役立っているとすれば、 国がボロボロだと知ったら、撤退しても同情はされても恨まれはしないはずだ。 逆に住民からも撤退してほしいと思われているならば、より好都合。 首相にとっても、人気を回復させる絶好のチャンスだろう。 いい口実が二つもできたのだし、早期決断を望むばかりである。
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2004年10月29日 | 莫迦にタバコを与えるな | |
今日、晩ご飯を定食屋で食べている時のこと。
私はカウンター席に座っていたのだが、隣に座っていた私と同じくらいの年齢の男性が
店主に「すみません、この時間帯は禁煙なんですか?」と声を掛けた。
「いえ、どうぞ吸って下さい」と答える店主。その瞬間、二重のいらだちを覚えた。
健康増進法で受動喫煙の防止が定められているのに、 平気で喫煙を許してしまう店主。 そして、その場が禁煙であるかどうかしか気にしない喫煙者。 前者に関しては、今回は特に問題としない。 そもそも、喫煙者さえいなければ受動喫煙の防止などする必要がないからだ。 しかし、後者はどうだろう。隣に座っている私や、他の客に対する配慮ではなく、 場のルールに背かなければ何をしても良いという自分本位な態度である。 禁煙かどうかにしか意識がないのが、喫煙者全体に言えることなのか、 若者全体に言えることなのか、それとも、彼個人の性格によるものなのかはわからないが、 こういう喫煙者がいる限り、私の喫煙者嫌いは次第に憎悪に変わっていくばかりである。 事実、今日のしょうが焼き定食はあまり美味しく感じなかった。 モラルの無い人間は喫煙しないでほしい。
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